中華のルーツも京にあり? 京都中華料理文化

知れば知るほど奥深い「京風中華」、その定義とルーツに迫る。

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京都の中華は、ヨソとはちょっと違う。近ごろそんな話をよく耳にする。しかしひと口に「京風中華」といっても、味つけのことなのか、町家など店の構えのことなのか、京野菜など素材が京都産だからなのか、その基準はいたって曖昧だ。
また「祇園など花街ではニンニクの匂いが御法度だったから味付けや香りを控えめにしたのが起源」とか「京都で最初の中華料理店で、京都人なら誰もが知っている横顔のマークでおなじみのハマムラがそのルーツだ」とか「そのハマムラの初代料理長でのちに鳳舞系として京都中華を席巻する高華吉さんから始まった」などなど、その起源にも諸説あるが、どれも真実味があるゆえに、逆にどれも決め手もない。おそらくそれらが緩やかにつながりながら「京風中華」という独自のジャンルを形成していったのだろう。
それはある意味ではあまりに京都らしいといえば京都らしいエピソードであり、まさに京都人にしかわからないふわっとした概念である。それだけ奥が深いともいえるのかもしれない。

しかしそのいっぽうで、京都以外の人や、さらには海外の人にもハッキリとわかるような、これぞ「KYOTO CHINESE」と位置付けられるお店はないものか。そこでパッと思い浮かんだのが「一之船入」である。
もともと一之船入というのは木屋町二条を下がったところにあるかつての船着場のことで、江戸時代には伏見や大阪からの荷を運ぶ高瀬舟の接岸地であった。いまも柳の木がそよ風に揺れる情緒豊かな場所で、再現された高瀬舟の姿が見られ、国の史跡に指定されている。この一之船入のすぐそばの運河沿いに建つ、かつてお茶屋だった町家がある。この町家は築80年以上で、文豪・森鴎外が小説「高瀬川」を執筆した場所ともいわれる由緒正しい建物。お茶屋だった当時には、船から茶屋へ出入りして遊ぶ旦那衆の姿なども見られたそうだ。

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一之船入

そのお茶屋だった町家を改修し、1996年にオープンしたのが創作中華「一之舟入」だ。オーナーの名は魏禧之(ぎ よしゆき)。横浜の中華街で生まれ、京都に来る前からテレビや雑誌に引っ張りだこだった彼が、なぜ京都で中華料理店を開くことになったのか。その歴史を解き明かしておきたい。

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魏さんの味への探究心が、京都の目利きをも認めさせた。

魏さんは1958年生まれ。横浜の中華街にあった父親の店を手伝うためなんと11歳で初めて包丁を手にした。18歳になった彼は重慶飯店本店で2年の修行を経て、六本木の風林というお店で上海料理の第一人者である郭宗欽(かく・そうきん)に師事。煮込み技術など中華料理の真髄を身につけた。そこから毎日1200人もの客を迎えるという伝説の名店・萬珍楼で、料理だけではなくホール係や下足番まで店を切り盛りするために必要なあらゆることを学んだ。その頃にはすでに魏さんはマスコミからのオファーもあり、テレビ・雑誌などのメディアに出演する時代の寵児のような存在となっていた。
しかし運命のいたずらが彼を翻弄する。長年の夢だった沖縄で自身初のお店をオープンし、客足も上々だった矢先、詐欺の被害に遭い、巨額の借金を抱えることになってしまう。横浜に帰ろうと考えていた魏さんに、京都から来ていたある客に「京都でお店を開くのでぜひプロデュースしてほしい」と頼まれた。これが京都との縁の始まりだった。魏さんがプロデュースした店は成功し、軌道に乗って1年ほどが過ぎたころ、木屋町のお茶屋で中華料理店をやってみないかという話が舞い込んだ。それがこの一之船入だったのだ。

「オープンして間もないころ、場所がお茶屋だったこともあって、祇園はじめお茶屋の方々にも足を運んでいただいていたのですが、ある女将に『京都でこんなに辛い味付けの料理は通用しない。あんたは和食をもっと勉強しなさい』と全否定されました。いくらお店が流行っていても、京都では認められたことにはならない。そのことを突きつけられましたね」

イチから和食を学び直した彼は、関東の味と関西の味の差に着目する。横浜出身だった魏さんは、関西は薄味なのにダシの味がしっかり出ていることに気づき、その秘密は水だと理解した。京都の井戸水はまろやかで甘みが強い。その井戸水の甘さを考慮してダシをとり、中華スープを作った。さらに中華ダシと和ダシをミックスさせたり、その比率を変えて味の変化を分析したりもした。この経験から彼は「料理はサイエンスだ」と学んだという。
そしていまから5年ほど前のこと、魏さんに京都の厳しさを突きつけたその女将から「あんたの料理がいちばん美味しいわ」と褒められた。京都を代表する料亭である菊乃井の村田吉弘さんからも「煮込みの魏」というお墨付きももらえた。ようやく京都に認められた。魏さんは初めてようやく胸をなでおろした。京都という一流が集まる食文化のトップの人たちに試され、鍛えられたこのときの経験が、いまの自分を支えてくれていると魏さんは語る。

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一之船入が「KYOTO CHINESE」と言われるいくつかの理由がある。まず素材に多くの京野菜が使われている。京都の水とダシとの研究を経て、魏さんは京野菜をどうアレンジして使えばよいのか?と試行錯誤を繰り返してきた。

「たとえば京野菜には独特の苦味や甘味が持ったものが多いので「甘い野菜には甘い味付けはしない」「苦い野菜を使う場合は辛い料理は作らない」「あえて甘い味付けをすることで野菜の渋みを強調する」など、京野菜そのものの味を引き立てるためのさまざまな工夫と研鑽を重ねました。最終的にはそれが認められて、菊乃井の村田吉弘さんから『お前こそが正式に京都中華を名乗るべきだ』と言われたこともありました。正直うれしかったですよ」

しかし魏さんは村田氏の申し出を断った。なぜなら、この味は京風を研究した結果ではあるが、同時に魏オリジナルの中国料理でもある、という自負があったからだ。巷でいわれている「京風中華」とも、いわゆる「町中華」とも違う、魏禧之ならではの味なのだ。であれば「創作中華」という肩書きのほうが理にかなっている。魏さんはそう感じていた。

いまも厨房に立ち、中華の可能性を広げるための旅を続けている。

いま魏さんは中国料理協会京都支部の支部長を務め、若手の指導や後進の育成に新たなる希望を見出している。味の研究はもちろん、厨房の掃除や皿洗いといった料理人としての基本となる心構えについてまで、再三にわたって話すのだという。

「若い料理人には『皿洗いから勉強しろ』といつも言っています。雑誌やテレビに取り上げられてお客さんが入っているからっていい気になるなよと。閉店後には毎日一時間かけてきっちり掃除をする。『京都の中華は厨房が綺麗』という文化は他でもないぼくが作ってきたんだという思いを持っています。まず自分の仕事場を綺麗に片付けられない人に良い仕事ができるわけがない。どんな仕事でもそれは同じこと。基本ができてないとダメなんです。厨房を見れば料理人の質はすぐわかりますから」

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京 静華、にしぶち飯店、大鵬、その他にもいくつかの人気中華料理店の名を挙げ、魏さんは彼らの活躍に心から期待をかけている。そして彼らに魏さんはつねに伝えていることがある。それはいつまでも春巻、酢豚、餃子だけの「中華屋さん」ではなく、フカヒレ、ツバメの巣、ナマコを楽しんでもらえる「中国料理」という文化を京都に根付かせよう、ということだった。魏さん自身、いまでも本場・中国に何度も足を運び、長期滞在してさまざまな店を訪ねては、いまの中国の味を研究している。だから若い人にもたとえ1か月お店を閉めてでも、中国で学び中華料理の幅を広げる努力を続けてほしいと願っている。

「たとえば日本人でも、アメリカやイギリスで生まれて二世、三世となった人が本物の和食が作れるかといえば難しいですよね。中華も同じこと。私たちが中国の料理を極めようと思っても、中国の味を知らずしてできるわけがない。だから私は中国に行って3年間いろんな地方の料理を勉強しました。いまの中国の、それぞれの地方の人たちがなにを食べているのか? 私の料理を食べてどう言うだろうか? そういう探究を続けてきました。やはり上っ面だけでは本当に美味しい料理は作れません。だから若い人には、化学調味料の味で誤魔化すのではなく、食材の味を引き出すような美味しい料理を作ることから逃げずに、切磋琢磨してほしいと思っています」

「探究心なきところに発展はない」。魏さんはそう語る。実際、60歳を超えたいまでも彼は自ら厨房に立ち、ああでもないこうでもないと格闘している。そうした探求の結果、オリジナルを追究してきた一之船入のコースメニューの中に、あえて昔ながらの町中華の味をプラスしたり、四川風にアレンジしたり、中国本場の味を取り入れたり、さまざまな模索と工夫を続けている。最近では飲茶の販売も始めた。とにかくひとつところにとどまらず、研究と実践を重ねて、より美味しいものを追究していく。おいしさこそ、正義なのだから。

魏さんが見出した、京都にある中華料理のもうひとつの原点。

今後について魏さんに尋ねたところ「原点に帰れ」という答えが返ってきた。先にも述べた中国料理協会の研究会では、中国で見つかった人民解放軍のために作られた料理や西太后に作られた料理に関する料理本をもとにした2か月に1度の勉強会が、京静華の宮本さんに講師のもとで開催されている。そして最後にもうひとつの「原点」について話してくれた。

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「中華料理といえば長崎や横浜、神戸といった港町から広がったといわれ、実際に大きい中華街もあります。そのルートがいまの『中華』の原点となったことは間違いないでしょう。でも私はもうひとつの原点があると思います。それは『普茶料理』なんです」

古来より仏教は、中国から日本にもたらされ、その際に必ずお茶や医薬品および染料としての漢方といった物品も同時に持ち込まれてきた。そのなかに普茶料理もあった。17世紀に隠元禅師がもたらした福建料理である普茶料理が日本で精進料理として発展した。その中心地こそ、多くの高僧が寺院を構えていた京都だった。そういう意味では、日本における中国料理のルーツは京都だったと言えるかもしれない。魏さんはここにも中国料理の新たな可能性を見出し、それは京都だからできることだと語る。
古くからの伝統がいまも大切にされ、厳しい目利きがいる街。和食の真髄に蓄えられた食材の味を引き出す技術と料理人の心意気。なにより都だったことで、いにしえより深いところで中国とつながっていたこと。そうした京都の文化性から、京都こそが古くて新しい中国料理の「原点回帰」にふさわしい場所だと魏さんは考えているのだ。
63歳になったいまの彼がめざす理想の中華は、京風中華でも町中華でもない、中国料理の源流。それは、中国料理の真髄を京都の若い料理人に伝え、次代に継承していくことでもある。魏さん自身がかつてお茶屋の女将の叱咤激励によって鍛えられたように、今度は彼にその番が回ってきたということでもあるのだろう。

 一之船入
店舗情報の詳細につきましては、ホームページをご確認ください。
https://ichinohunairi.com/

 

記事を書いた人:ENJOY KYOTO

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