京の夏の風物詩として知られる「京都五山送り火」は、毎年8月16日に行われるお盆の伝統行事です。午後8時から、東山如意ケ嶽の「大文字」の点火を皮切りに、松ヶ崎西山・東山の「妙法」、西賀茂妙見山の「船形」、金閣寺に近い大北山の「左大文字」、嵯峨曼荼羅山の「鳥居形」へと次々に点火され、幻想的な炎が宵の空に浮かび上がります。
今回は五山のなかからとくに「船形(ふながた)」について船形万燈籠保存会・西方寺六斎念仏保存会の会長の川内哲淳さんに詳しくお話をうかがいました。川内さんは西方寺住職であり、現在は京都五山送り火連合会会長を務められています。
山に点る火がかたどるのは大海原を渡る帆船
「船形万灯籠送り火」が行われる西賀茂は、京都市街の北西に位置し、上賀茂神社から賀茂川を挟んで西側に広がる地域です。京野菜を代表する「賀茂なす」の産地でもあり、古くから都の台所を支えてきた農業地帯でもあります。妙見山のふもとにある旧西賀茂村の3カ町(鎮守庵町・今原町・総門町)の55戸によって伝統が守られ、送り火とともに「西方寺六斎念仏」を受け継いでいるのが特徴です。
送り火の起源については五山それぞれに諸説あり、船形についても確かなことはわかっていません。船のかたちになった経緯も、東山の「大」に対して、「船」を「乗」とみなし「大乗仏教」を表しているという伝承や、お盆に先祖を彼岸へ送る「精霊流し」の船を模しているなどさまざまな説があり、西方寺の開祖である慈覚大師円仁(えんにん/794~864年)にちなんだものとも伝えられています。
唐へ留学していた円仁が帰路、暴風雨に遭った際、布切れ(船板片という説もあり)に南無阿弥陀仏と書いて海中に投じると、たちまち風雨が静まって無事帰国することができたという故事があります。送り火はこのときの船をかたどったものとも言われ、
「船形を良く見ると、昔の人々にとって身近であるはずの荷運び用の平船ではなく、大海原を渡るための帆船であることがわかります」と川内さん。
西方寺は円仁の創建当時は天台宗山門派に属していましたが、正和2年(1313)に道空(どうくう)上人が中興して浄土宗に改められました。その際、布教のために鐘や太鼓を打ち鳴らしながら念仏や和讃を唱える六斎念仏が行われるようになり、現在では送り火の終了後、西方寺の境内で斎行されています。京都では16の六斎念仏が受け継がれ、念仏踊としてユネスコ無形文化遺産に登録されていますが、ほかが能楽や歌舞を伴うのに対し、西方寺の六斎念仏は極めて古い形態をいまに伝えているといわれています。
地域の人々が担う送り火の伝統
「送り火の起源がはっきりしないのは、この行事が朝廷や幕府が主導してきたものではなく、民間で自然発生的に成立してきたものだからでしょう」。こう川内さんが話す通り、送り火を公的に記録しているものは少なく、船形が歴史資料に登場するのは慶安2年(1649)の公家の日記に「山門へのぼって市々の火を見物した。西山大文字、舟、東山大文字、それぞれ見事だ」と書かれているのが初見とされています。
お盆になるといまも日本各地の家々で迎え火や送り火、精霊船や灯籠流しなどが民間伝承として受け継がれているように、「盆の終わりの先祖送りを集落単位で行ってきたのが五山送り火といえます。宗教行事ではありますが、寺が主になって担ってきたわけではなく、寺はあくまでも人々が集まるための場であり、地域の人の先祖供養の信仰によって守られてきた行事なのです」。
送り火を点す「火床」は急峻な山の斜面に作られており、79カ所の火床は左右約200m、上下約130mにわたって並んでいます。その一つひとつに割り木を組み上げるのは重労働です。現在では山頂まで四輪駆動車が入れる道が造られ、斜面を走行できるキャタピラ車も導入されていますが、一年を通した山の手入れや木材の調達、夏の炎天下での準備など楽ではありません。
それら地域の人々の奉仕によって行われている送り火について、川内さんは「古来、家族を思うことの大切さを学ぶ情操教育の場であり、また力をあわせて大きなことを成し遂げるという貴重な体験の場もあるからこそ、守り続けられてきたのではないか」と推察します。
皆が平等に役割を果たす「床並(とこなみ)」の精神
船形万燈籠保存会に所属する会員数は西方寺の檀家地域にある55戸で、これは旧西賀茂村在住の旧家に限られています。送り火の当日に点火を担うのは18人の若中とサポート役の36人の中老で、地域の男子は高校2年生になると若中に入り、新たに会員が加われば若中の最年長の者から中老となります。若中も中老も人数は増減せず、中老を離れればOBである年寄に入り、いわば“ところてん”方式に組織が若返るようになっているのだとか。
また、それぞれの若中が担当する火床の場所と数は加入順に決められており、新しい若中が1人入れば、1つずつポジションが移ります。初心者向けの比較的簡単な場所から花形ともいえる目立つ火床まで、自動的に担当が決まります。「不平不満が出ないよう、平等に役割を分担するこの方法は、古くから“床並(とこなみ)”と呼ばれてきました。同じ地域に住む者同士の間で揉めごとを起こさず、結束をより固くするために、本当によく考えられたシステムだと思います」と川内さん。
若中1人につき3人の中老がサポートすることになっており、この組み合わせについても、一番新しい若中に最古参の中老が付き、難しい火床は最年長の若中と、それを経験したばかりの一番年若い中老が担当するという、“折り返し”式の仕組みになっています。数百年にわたる伝統のなかで確立されてきた平等かつ効率的な組織が、安全で間違いのない送り火行事を支えているといえそうです。
送り火にかける担い手の思いに寄り添って
代々田畑を受け継ぐ農村ならではの土地柄を基盤として、守り伝えられてきた船形万灯籠送り火。「町入り」と呼ばれる保存会の会員入会は長らく各戸の長男のみと決められていましたが、少子化の影響もあり、現在は次男、三男も加入できる「準会員枠」を設けています。ただ、土地を手放す人、後継者がない家なども増え、「あと2~30年もすれば10戸は減るだろう」と川内さんは危惧しています。
一方で、「地域のしきたりだからと強制されるわけでなく、親が楽しそうに活動している姿を見て、伝統を担うことに価値を見出して積極的に参加してくれる若者が多いのはうれしいところです。高2になるのが待ちきれず、手伝いに来てくれる中学生と話をするのは私も楽しいものです」
住職として20年以上にわたって保存会会長を務める川内さんも、幼いころから祖父や父に付いて手伝いをしてきました。送り火の点火の合図となる鐘も、六斎念仏の中心となって読経を行うのも祖父や父から受け継いできた役割です。8月16日が1年の締めくくりであり、終われば一年の責任が果たせたとほっとする、と話してくれました。
「国内外からたくさんの方がこの日、京都を訪ねてくださいますが、送り火というのは単なる山焼きやイベントではなく、守る人々にとっては大切な一日です。先祖供養や信仰などの意味を理解していただければそれに越したことはありませんが、そんな難しいことではなく、この火を大事に思う人がいることを知っていただければ、と思います」。
送り火に向けるレンズを一瞬だけ脇に置いて、送り火の伝統を受け継ぐ人々の気持ちや願いに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
また、京都五山送り火協賛会では、京都五山送り火オリジナル絵はがき・手ぬぐい・扇子を販売しています。この収益金は京都五山送り火の保存・継承に役立てられます。
▽ 詳細・販売場所(インターネット販売含む)はこちら
京都五山送り火「絵はがき・手ぬぐい・扇子」|【京都市公式】京都観光Navi
https://ja.kyoto.travel/event/major/okuribi/goods.php
■参考リンク
◇京都五山送り火のおすすめ鑑賞スポット~マップや事前予約プランも紹介~ - 京都観光オフィシャルサイト_京都観光Naviぷらす
https://plus.kyoto.travel/entry/okuribi_spot
◇京都五山送り火連合会会長が語る、「京都五山送り火」の成り立ち、行事に込められたご先祖様への思い - 京都観光オフィシャルサイト_京都観光Naviぷらす
https://plus.kyoto.travel/entry/okuribi
◇京都五山送り火公式HP
https://ja.kyoto.travel/event/major/okuribi/goods.php
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記事を書いた人:上田 ふみこ
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ライター・プランナー。京都を中心に、取材・執筆、企画・編集、PRなどを手掛け、まちをかけずりまわって30年。まちかどの語り部の方々からうかがう生きた歴史を、なんとか残せないかと日々奮闘中。