「お寺に行こうと思うけど、庭園の見方がわからない」「いろんな庭園があるけど、どこがちがうの?」
庭園デビューを前に、そんな不安を抱えているあなたに、ぜひおすすめしたいのがこの記事です!
今回、庭園のお話を聞いたのは、らくたび代表で京都学講師の若村亮さん。
・学生時代から20年以上にわたり京都の観光に携わり
・過去には京都市の無形文化遺産の委員も務め(これ、本当にスゴい役職です……)
・現在は京都の旅行企画やガイドブックを数多く手がける
などなど、まさに京都観光のエキスパートである若村さんに、京都の庭園の基本について教えていただきました。前編・後編に分けてお届けします!
※後編は6月下旬に公開予定
庭園に行く前に知っておきたい基礎知識
「そもそも庭園ってどう見るの?」「どんな意味があるの?」。せっかく庭園に行くなら余すことなく楽しみたい…という方に向けて、まずは庭園の見方やその意味について伺いました!
庭園の世界は何を表現しているの?
ー 庭園に行く前に知っておくといいことってありますか?
若村:庭園はそもそも神社やお寺にありますよね。神社やお寺は神様や仏様を祀っている場所ですから、そこに作られている庭園は、基本的には神様や仏様の世界をあらわした空間なのです。石を神様や仏様に見立てて配置するなど、基本的な見方があります。
ー 具体的にどういう見方をすればいいですか?
若村:庭園では複数の石を組み合わせることを「石組(いしぐみ/いわぐみ)」といい、何かを表現しているケースがあります。
ー たしかに、なにか意味ありげですね…。
若村:たとえば、お寺の庭園ではよく3つの石が並んで立っています。これを「三尊石(さんぞんせき)」とか「三尊石組(さんぞんいしぐみ)」といって、石を仏様に見立てているんですね。真ん中の大きい石が中尊と呼ばれる仏様で、両サイドの小さい石が脇侍(きょうじ)といって付き人のような存在。石を横に寝かすのではなく、まっすぐ立てた「立石(たていし)」という手法でデザインすることで、立ち姿の仏様をあらわしていることが多いです。
三尊石組(建仁寺「潮音庭」)
【三尊石組】中央の石の両サイドに小さい石を配置した3個1組の石組。三体の仏様に見立てている。
ー そう言われると、仏様のように見えてきました。
若村:石の配置にも注目してみてください。仏様をあらわす石は、私たちがいる建物や縁側から一番遠い場所に置かれることが多いです。これは私たちの現世から仏様の世界が遠いことを意味しています。
ー なるほど。仏様の世界以外に表現されているものもあるんですか?
若村:仏様以外にも、鶴や亀など古来、縁起のよいとされるモチーフをあらわした石もあります。
ー 鶴は千年、亀は万年……長寿のシンボルですね。
鶴石(蓮華寺)
亀石(蓮華寺)
【鶴石・亀石】不老長寿を願い、長寿の鶴(上)や亀(下)に見立てている。石と樹木を組み合わせて形にすることもある。
若村:ほかにも「蓬莱山(ほうらいさん)」という山も覚えておくとよいでしょう。水墨画にもよく描かれるのですが、不老不死の仙人が住むといわれている伝説上の奥深い山のことです。そのような、あこがれの世界を庭園の中にあらわして、よい縁起を願うわけです。
蓬莱山(蓮華寺)
【蓬莱山】古くから中国に伝わる、不老不死の仙人が住む奥深い山。庭園では石組や樹木によって表現される。
ー 山や石以外に、池もありますよね。
若村:いい質問ですね。大前提として、庭園は大きく分けると、「池泉庭園(ちせんていえん)」と「枯山水庭園(かれさんすいていえん)」の2種類があります。
ー なにか大きな違いがあるのでしょうか?
若村:わかりやすくいうと、水を用いているかどうかという違いになります。そこには、それぞれの庭園が生まれてきた時代背景と深い関わりがあります。ここからは日本の庭園史を交えて解説していきましょう。
「池泉庭園」と「枯山水庭園」の違いとは?
若村:まず、池泉庭園は文字通り、水をたたえる池をもつ庭です。中国から日本に庭園文化が伝わってきた際は、この池泉庭園が伝わったといわれています。中国の宮廷のように、広大な池を中心とした「池泉庭園」が日本における本格的な庭園のはじまりでした。
奈良時代、先進文化を持った中国に学ぼうと日本から旅立った遣唐使の人々が、中国の宮廷でみた庭園文化を日本に持ち帰りました。
ー 庭に池を作るって、現代の感覚だとよほどのお金持ちですね…。
若村:当時も同じく、財力のある天皇や貴族たちを中心に広まりました。平安時代には池の中に島や橋などを設けた「寝殿造庭園」と呼ばれるスタイルが流行します。平たく言うと、貴族の邸宅にある広大な庭園。池に船を浮かべて宴を開くなど優雅なひとときを過ごしていたんです。
ー 貴族っぽいですね。
若村:今でも、嵯峨の大覚寺にある大沢池では「龍頭舟」という大きな船を浮かべて舟遊びを再現する催しが開かれています。まさにこの時代の世界観をあらわしています。
平安時代、嵯峨天皇は庭園内の大沢池において龍頭舟を浮かべ、貴族や文化人とともに舟遊びを楽しんだと伝わります。
ー 船を浮かべるとなると、大きな池が必要になりますね。
若村:「池泉庭園」は、どの場所から池を見るかによって、さらに種類が分けられ、池の大きさもさまざまです。大覚寺のように船で池を回遊するものを「舟遊(しゅうゆう)式庭園」といい、他にも池の周りを歩いて鑑賞する「回遊(かいゆう)式庭園」、書院などの建物から鑑賞することを第一にした「鑑賞式庭園」などがあります。いずれにも共通しているのは「自然美の空間」であるということです。水があることから、美しい花や樹木で彩られた、優雅な自然風景の庭が多いですね。
ー お庭って、桜や紅葉が咲くイメージもありますが、一方、松や石が並んでいるため簡素なイメージもあります。
若村:おそらく、それはもう一方の「枯山水庭園」のイメージが強いからだと思います。枯山水庭園は、水を用いずに白砂で水の流れを表現したり、石の組み合わせで山や滝を表現しています。花や紅葉などの華美な表現をあまり好まない傾向があるんです。
ー なぜ花や紅葉を好まないのでしょうか?
若村:それは禅の教えを好んだ武士の影響が強いと考えられます。池泉庭園の広まった優雅でおだやかな天皇・貴族の時代から一転、鎌倉時代以降は武士の登場によって戦乱の世に変わります。自らを鍛え上げて、命をかけて戦う武士の社会ですから、自らを律する強い精神が求められました。
室町時代、自らを律する武士たちの間で流行した「禅」と庭園文化が深く結びつき、簡素な枯山水庭園が誕生します。
若村:そのような武士の世に好まれたのが枯山水庭園です。枯山水庭園は、主に禅宗の寺院を中心に作られています。厳しい修行を重んじる禅宗の教えと武士の精神が結びつき、庭園に美しさを求めるだけではなく、自分の心と向き合う「精神的な空間」としての役割が深まったわけです。ですから、花や紅葉などは心を惑わし自らを律する妨げになるため、基本的にあまり好まれませんでした。
ー なるほど。それで松のような木々が好まれたんですね。
若村:とくに松は常緑樹で、冬にも枯れずに葉が青々としています。厳しい寒さにも耐え、年中変わらない「普遍の美」は、禅宗の教えや武士と相性がよかったのでしょう。石を立て、仏様に見立て、仏様の世界を庭園としてあらわして向き合ったのが、この庭園の特徴です。明日をも知れない命の武士たちが、禅の思想に傾倒した気持ちもわからなくないですよね。
以前の広大で優美な庭園から一転、限られた空間に、水や花のないシンプルな枯山水庭園が主流に。庭園に高い精神性を求めました。
ー 水を使わずに、白砂や石で表現しているのはなぜですか?
若村:水のないところにさえ水を感じる。つまり、限られた空間や限られた要素で、きわめて高い精神性や抽象性を凝縮したのだと思います。もうひとつは、戦乱によって経済的にひっ迫したため、以前のように大きな池を作るほどの余裕がなかったという説もあります。そこで、白砂や石を水に見立てた「枯山水」というアイデアが生まれたのでしょう。
ー 時代背景とともに知ると、池泉庭園と枯山水庭園の違いがよくわかりました。
作庭家と時代を映す名庭
ー その時代を生きた人の価値観によって、庭の大きさや形、意味合いが変わってくるのがおもしろいですね。
若村:そうですね。江戸時代以降は、作庭家を軸にすると庭園の違いを見分けやすいと思います。
ー 戦国時代の後は、どのような庭園が生まれるのですか?
若村:徳川幕府が天下を治めた江戸時代になると、世が平和になって戦乱がおさまります。すると、財力をもった大名たちが自らの威厳を示すため、競い合うように贅を尽くした庭園を作る時代が訪れます。いわばお庭の自慢大会です。
江戸時代、全国の大名たちは競うように庭園を作り、趣向を凝らした個性豊かな大名庭園の文化が花開きました。
ー また、豪華な時代に戻るんですね。
若村:そうですね。戦乱の世が終わり、緊張感がやわらいだように、この時代の庭園はどこかゆったりしています。大きな石や池、華美な花や樹木などを大胆に用いた「大名庭園」と呼ばれる豪華な庭園が流行します。
ー たとえば、どのような庭園がありますか?
若村:典型的な庭園としては、二条城の「二の丸庭園」が挙げられます。この庭園を手がけた小堀遠州は、江戸幕府お抱えの作庭家として才能を発揮しました。現代的に言うと、アートディレクターでしょうか。
ー どのようなデザインをしたのですか?
若村:一流の文化人で、茶人でもあった小堀遠州は、茶の湯の美意識である「わび・さび」に、明るさや美しさ、豊かさを取り入れた「綺麗(きれい)さび」という価値観を作り上げます。庭園とともに建築や茶室が調和し、一体感があるのが特徴です。また、直線的な石材を組みわせたデザインを初めて造園に持ち込みました。
幕府お抱えの作庭家としても活躍した小堀遠州は、平和な時代を象徴するように優美で均整のとれた庭園の世界を確立しました。
ー そんな江戸時代も幕府の滅亡とともに終わりが訪れます。大名がいなくなると、誰がお庭を作ったのでしょうか?
若村:明治時代になると、華族と呼ばれる近代の貴族や、巨万の富を得た財閥によって、庭園が作られました。京都には「無鄰菴(むりんあん)」という明治期の傑作と名高い庭園が残されています。この庭園は、華族の一人であり内閣総理大臣も務めた山縣有朋の別荘として、名庭師の七代目小川治兵衛が手がけました。
ー 無鄰菴には、どのような特徴があるのでしょうか?
若村:明治維新後、西洋の影響が庭園にもあらわれます。それまでの日本庭園には見られない芝生を広く敷き、さらに琵琶湖疏水から水を引くなど、人工的なアプローチで自然を演出しようと試みます。
無鄰菴を手がけた七代目小川治兵衛。自然そのもののような開放的な庭園は「植治流」と呼ばれ、その後の近代庭園の手本となりました。
ー 芝生というのは、いかにも西洋っぽいですね。
若村:はい。しかし、西洋のガーデンの基本であるシンメトリー(左右対称)ではなく、あくまでもアシンメトリー(左右非対称)をよしとする東洋的な自然美を追い求めました。
ー アシメですか…。
若村:昭和に入ると、さらに重森三玲というモダン派の作庭家が登場します。東福寺「本坊庭園」では、庭園に市松模様や北斗七星を描くなど、自然とは対照的な人工造形美を表現して人々の心をつかみます。
ー 北斗七星は、石ではなく石柱なんですか?
若村:この石柱、実はもともとお寺の東司(とうす)、つまりトイレの石柱だったものをリサイクルして使っています。それまでは、名石を集めて庭園を作っていましたらから、とても斬新な発想です。日本庭園の伝統にモダニズムを融合させたという意味では、庭園史に新風を吹き込んだといえます。
昭和を代表する作庭家の重森三玲は、「永遠のモダン」を追求し、力強い石組と、大胆に苔と敷石などを配した枯山水庭園を数多く作庭しました。
ー なぜ、そんなことができたのでしょう?
若村:重森三玲は、美術の研究を目的に京都に移住し、独学で作庭をはじめました。庭園の研究者として東福寺の調査をしていた時、同寺の造園計画が持ち上がり、ボランティアでこれを引き受けたことから作庭家としてのキャリアが始まりました。前例にとらわれない考え方が、庭園に革命をもたらしたと思います。
ー お庭って、少し難しいイメージもありましたが、とても自由なものなんですね!
若村:足早にですが、京都の主な庭園史は以上です。池泉庭園や枯山水庭園の他にも、京都にはお茶室に付属する「露地庭園」や京町家の「坪庭」などの庭園も存在しますから、お寺や神社以外でも庭園を楽しんでみてください。
若村さん、ありがとうございました! 庭園には、その時代の人々の暮らしや思いが映し出されているわけですね。置いてある石一つにも意味があると知ると、見方が変わった気がします。さっそく見に行きたくなりました! けれど、どこへ行こう……?
そこで後編の記事では、若村さんおすすめの「池泉庭園」と「枯山水庭園」を取り上げ、庭園の魅力をさらに深掘りします!
後編の記事:【京都の庭園入門・後編】図解で見所をガイド!観光のプロがおすすめする「池泉庭園」と「枯山水庭園」
監修:若村 亮(株式会社らくたび)
企画編集:光川 貴浩、長谷川 茉由(合同会社バンクトゥ)
写真撮影・イラスト作成:上田 広樹(合同会社バンクトゥ)
写真提供:株式会社コトコト
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取材をした人:若村 亮(わかむら りょう)
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2006年4月に「 株式会社らくたび 」を創立して京都に特化した事業経営を行い、『らくたび文庫』など京都関連書籍の企画・編集・執筆や、旅行企画プロデュース、各種文化講座の京都学講師、京町家の魅力発信や活用・維持保存、テレビ・ラジオ番組の出演など、多彩な京都の魅力を広く発信している。また、京都関連の観光施設・商業施設・学校法人・不動産(京町家)事業などのアドバイザー&コンサルタント事業も行っている。